10年間悩んだ人見知りを半年で克服していた
友だちにさえ人見知りを発揮していたけど、いつのまにか、人見知りではなくなっていました。
あくまで主観ですが、緊張はするけど、苦になるほどではない感じです。
期間でいうと、小学生ぐらいから1年ぐらい前なので10年ぐらい人見知りでした。親戚で集まると、赤ちゃんの頃祖父を見ると毎回泣いていたと聞くので、生まれつきかもしれないです。
克服には1年もかかりませんでした。それは克服方法もシンプルだったからです。
■自分は人見知りじゃないと思い込む
僕の場合は、自分が人見知りだと思い込みすぎていたことが原因でした。じゃあ逆に人見知りだと思わなければいいかと思って試していました。
人見知りと思わないこと。かなり抽象的ですが、効果があるのはこれかなと思います。
人見知りはすぐに治るものではなく、経験によって自信をつけていくものもう大丈夫だと自覚することで、人と接することに抵抗がなくなりました。
とはいっても、長年自分を縛っていた思考の癖はなかなか抜けず、ちょっと気を抜くと、自分は人見知りなんだと思っちゃっていました。
特に話がうまく伝わらないときだったり、噛んでしまったときは、落ち込んで、元の思考の癖に戻りがちでした。
そこで、自分の話すことへの理想像を下げることにしました。落ち込むのは理想と現実のギャップが原因だと思ったからです。
会話の理想を上手く流暢に伝えるから、とにかく伝わればいいに変更しました。
会話の途中で噛むことや、話が長くなることは今は小さい問題で、とにかく伝わればいいやと思って話していました。
これで上手く行ったのか会話のハードルが下がって、人見知りだと思うことが少なくなって、今は自分は人見知りじゃないという感覚の方が強くなってきたように思います。
そして、伝える姿勢が相手にも伝わってなのか、流暢じゃなくても、丁寧に伝えようとする姿勢を評価してもらったりもしました。
流暢に話すことよりも、伝えてもらうほうが、相手にとって重要で、伝えようとする姿勢が評価されることもあります。
■伝えないことの方が迷惑
人見知りそれ自体よりも、人見知りであることによって、コミュニケーションにおいて、自分にも、話し相手にも不都合を与えてます。
人見知りと言いつつも、友人はいるし、話せてもいました。だけど今思えばコミュニケーションコストが高かったなと思います。
人見知りでも、なんとなくコミュニケーションが成立しているのは、話し相手のおかげだと考えました。
なぜなら、多くの人には使わなくていい労力を使わないとスムーズに会話できない状態だからです。
すごく気を遣わせていたなと思う。友達同士だったとしても気が引けます。
そして、自分が人見知りだと思うならまだいいけど、人見知りを自称するのは、相手に気を使ってということで、失礼でもあるなと思いました。
そう思ったのは、星野源さんの発言がきっかけです。
星野源 相手に自分のことを「人見知り」というのをやめた理由 – grape [グレイプ]
人見知りであることによって、迷惑な存在だったということを反省しました。
人見知り自体は恥ずかしくない。本当に恥ずかしいのは、相手に自分を引き出してもらって当たり前だと思ってしまうことだと思いました。
そして、自分がしないことで迷惑をかける可能性について認識しました。
人見知りと思っていた自分に伝えたいのはこれ。
人見知りであることはしょうがないけど、せめて伝える努力をする。
伝えるといっても、単語の解釈すら人によって異なるし、なんとなくで使っているので、自分の思っていることを完璧に伝える必要すら、日常会話レベルならないです。
そう考えて噛もうが、どもろうが無視して、そのまま話しをつづけることにしてました。そしたら、いつのまにか気にならなくなって、恥ずかしさも消えてました。
学生のときは、噛んだり、どもったりするとそれだけで笑われたりするけど、大人になってバラエティでもないのに、噛んだ人を笑うような人は少ないはずなので、伝えることを意識しました。
人見知りで、人と話すとき緊張しますが、伝えたいことを伝えようとすることで、いつのまにか自信がつきました。